5/21(土)の朝に病院から連絡を貰ってから、あの頑張り屋さんの祖母が、こちらの問いかけに対して反応もなくなり、目も開けることも出来なくなり、呼吸も荒くなり、日増しに弱っていく祖母をこの目で見ていると、胃ろうをしてから5年・・・その長い闘病生活の日々が走馬灯のように駆け巡り、本当に涙しか出てきませんでした。
5/23日(月)の昼、もう今日が最期だなと何となく感じました。少しでも楽になって欲しくて、枕元で昔の曲を流しました。すると少し呼吸が落ち着いてきたような気がしてホッとしたのを覚えています。
それから「赤いりんご」から「青い山脈」に変えて暫くすると、祖母の頬が少し上がり、なんと微笑みだしました。それも何回も・・・
喜んでくれてるんだと嬉しく思ったのもつかの間、それから息み出しました。ちょっと不安になり、それで音楽を流すのを止めてしまったけど、今思えば、あれは歌っていたのかも・・・最後の力を振り絞って。
喜んでくれてるんだと嬉しく思ったのもつかの間、それから息み出しました。ちょっと不安になり、それで音楽を流すのを止めてしまったけど、今思えば、あれは歌っていたのかも・・・最後の力を振り絞って。
2時間ほど、一緒に居て、帰って晩御飯の支度をしていた最中に、病院から危篤連絡がありました。すぐに駆け付けたけど、やはり間に合わなかった・・・
この3時間の間に祖母は身支度をして、旅だってしまいました。
3時間前に祖母に触った時と、何も変わらず、ちょっと冷たく、でもまだ温もりもありました。
3か月前に点滴がもう入らないと一度は病院から連絡を貰ったけど、看護師さんが「点滴、頑張ろうか」と祖母に問いかけたら、必ず祖母は首を縦に降ったそうです。だからこそ、看護師さんも何とか入る所はないかって頑張ってくれました。そんな皆さんの頑張りが、3か月も生きることが出来たのですね。
そんな状態で、寿命を引き延ばされていることに、最初は少し抵抗を感じたこともあったけれど、看護師さんの中でも可愛い婆ちゃんで人気があって、惜しまれる存在になっていたのですね。私たちもそんな祖母の顔を見る楽しみも、たまに会話をする楽しみもあったので、結局、断ることが出来ませんでした。祖母には辛い思いをさせてしまったと思います。
物資もない、あの厳しい戦争の時代に、商売をしながら子育てもし、私たちの礎を気付いてくれた祖母、そんな強い祖母だからこそ、一回も点滴を断らず、常に前向きで頑張っていたのだということを、私も、私の子どもも、最後のメッセージをしっかり受け止めています。
その後、祖母は5/23、24と二晩、あんなに帰りたかった自宅に11年ぶりに戻ることが出来て、喜んでいたかな?
そして生前祖母が好きだった物をを一杯棺に入れて、25日にお通夜、26日に告別式を無事に終え、祖母を温かく送り出すことが出来て、今はホッとしています。
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